手話の誕生
1760年以前は、「孤立」していた聴覚障害者は、ごく身近な人だけにしか通じない『ホームサイン』を使ってわずかな意思疎通をはかっていた。
1760年、ド・レペ神父が世界初の聾唖学校である、パリ聾唖学校を設立した。ここで世界で初めてのろう者の「集団」が形成された。彼らは、各々持っていたホームサインを統合し、発展させて、手話を創り上げた。パリ聾唖学校では、手話をもとにした教育法である、フランス法が確立された。
パリ聾唖学校の試みは、ヨーロッパ各地に波及していき、各国独自の手話が創り上げられた。
- それぞれの国で初めての聾唖学校設立年。2つ目以降の聾唖学校設立年は省略。
1778年 ライプチヒ(ドイツ)
1779年 ウィーン(オーストリア)
1783年 ハックニー(イギリス)
1784年 ローマ(イタリア)
1790年 フローニンゲン(オランダ)
1793年 トゥルネ(ベルギー)
1795年 マドリード(スペイン)
1806年 サンクト・ペテルブルク(ロシア)
1807年 コペンハーゲン(デンマーク)
1808年 ストックホルム(スウェーデン)
1811年 イヴェルドン(スイス)
1817年 ハートフォード(アメリカ)
1823年 リスボン(ポルトガル)
- 【1862年、江戸幕府に派遣された第一次遣欧使節一行はヨーロッパの聾学校や盲学校を視察していた。】
日本の最初の聾学校は、古川太四郎が1878年に設立した京都盲唖院である。ここに31名の聾唖生徒が入学し、日本の手話が誕生した。
手話の暗黒時代
しだいに聾学校では、手話で教育する方式と、口話法という、聾児に発音を教え、相手の口の形を読み取らせる教育方式の2つの流派に分かれていった。両者は長い間論争し、対立していた。
1880年ミラノで開かれた国際聾唖教育会議で口話法の優位性が宣言され、手話法や手話は陰の立場に追いやられていった。口話法が採られた背景には、国家強化には言語の統一から、つまり、教育の場では音声言語獲得からという思想があった。この宣言は、やがて日本にも入ってきて、日本も口話法が主流になっていった。
この状態が長く続き、手話は教育の場で、そして社会で認められない、偏見を持たれる言語となった。しかし、手話は、聾学校内では教師の見ていないところで先輩から後輩へ伝承されていった。又、社会内ではろう者が集まる場でひそかに使われていた。
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